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2019-08-15
ニーチェの書から、ベンヤミンが短い影を、キリコが長い影をイメージしたこと
ベンヤミンの断章。

正午頃になると、影たちはわずかに、事物の足元にへばりついた黒く鋭い縁取りとなっていて、音もなく不意に、それぞれの巣穴のなかへ、それぞれの秘密のなかへ引きもる手筈をととのえている。するとそこには、押しひしめき身をこめてあふれんばかりに、ツァラトゥストラの時間ときがやってきているのだ。〈生の真昼〉の思索者、〈夏の庭〉の思索者の時間ときが。というのも認識は太陽と同じく、その軌道の頂点において事物を最も厳密にかたどるのだから。 ――ヴァルター・ベンヤミン「短い影」(浅井健二郎訳)

キリコの絵について述べているかのようにも読める。
ただし、キリコが彼のいうメタフィジック絵画で描いた影は長く、ベンヤミンの影とは逆。
ベンヤミンの影は夏の影、キリコの影は秋。

キリコは自身のいうメタフィジック絵画の由来を、ニーチェの「孤独な詩情」にあると称している。
また曰く、その詩情こそ「この哲学者の発見した新しさ」なのだ、と。

この新しさとは、情調にもとづく奇怪な、奥深い、神秘的で、限りなく孤独な詩情なのである。……この詩情は、私に言わせれば、秋の午後の情調にもとづいている。その頃には、空はきよらかで、かげは、夏のあいだよりも長くのびるようになっている。太陽が低くなりはじめているからだ。この異常な感覚は、イタリアの町々や、ジェノヴァやニースなどという地中海沿岸の町々で味わうことが出来る。 ――『キリコ自伝』(粟津則雄『思考する眼』による)