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2019-02-03
雲と同じような自由と怠惰
喫煙は浪費の個人化と結びついている、とバタイユが言っている。
煙草をふかすのは、祝祭としておこなわれた古代の浪費に代わる個人的ないとなみなのだ、と。

喫煙する者は、周囲の事物と一体になる。空、雲、光などの事物と一体になるのだ。喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない。煙草をふかすことで、人は一瞬だけ、行動する必要性から解放される。喫煙することで、人は仕事をしながらでも〈生きる〉ことを味わうのである。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰を与えるのだ。 ――中山元訳『呪われた部分 有用性の限界』

空を見上げて、雲の行方を追ったりする。
「おーい、雲よ」と昔の詩人を真似たりする。
遠い浮雲を二人でぼんやりながめていた覚えがある。二人ではなく、ひとりだったかもしれないとも思う。あるいは、遠い浮雲をぼんやりながめた記憶など、そもそもなかったりもする。
とにかく喫煙にはそんな感覚がかすかに伴う。
バタイユの論脈と外れるが、祝祭に加わりたいかそれとも個人的な浪費で済ませるかと問われたら、自分なら後者を取る。万博や五輪の騒ぎをうれしがる者と鬱陶しくおもう者。

個人は喫煙において、その優雅さを示す。個人が煙草に吸われるのだと言ってもいいほどだ。喫煙すること、とくに自覚なしに行われるこの営みは、自己主張からもっとも遠く、すでにごく透明なものになっているのである。 ――同