to top page
2019-02-20
天球の外側のこと
天球は地球を大きく取り囲んだシャボン玉のようなもの。
その膜上に配置された太陽や月や星々を、われわれは内側からながめている。


天球は仮想的に存在する。実在しないから見ることも触れることもできないが、その上に天体が配置された場所としてわれわれに認識されている。
もし天球がなかったら、あるいは、天球の外側をのぞくことができたら、何が見えるか。
地の果てをめざして歩き続けた旅人が、ついに目的地にたどり着く。
するとそこは大地と天球が接する場所。
作者不明の上の版画で、地の果てにたどり着いた旅人は、天球から首を出して外の様子をうかがっている。ここに描かれた天球の外部は、巨大な機械装置を思わせる。天球が24時間で地球のまわりを一周することから、その背後に機械時計のぜんまいや歯車に似た仕掛けがあるとしての想像か。

今日の常識では天球の背後に機械はない。では天球がないとした場合、その向こうに何が見えるか。
たとえばオリオン座のあたりで天球が破れているとしたら――


オリオン座の「三つ星」は、右から、δ(デルタ)、ε(イプシロン)、ζ(ゼータ)。
これらの星への地球からの距離は、δ が1200光年、ε が2000光年、ζ が1260光年。左右の二つは似たような距離にあるが、真ん中の ε はそれらの倍ほども地球から離れている。
これほど距離の違うところにある星がまとめて「三つ星」と呼ばれ、狩人オリオンの着衣のベルトと見なされているのは、これらの星がわれわれ(人間)の距離感の働かない遠方にあって、地球から等距離にあるかのように見えるから。
「距離感の働かない遠方」とは、別の言い方をすれば「すべてが等距離に見えてしまう遠方」のことで、つまりはこれが天球の正体。どの星も地球から同じ距離にあるかに見えるから、全体としての天空も球状に見え、地球とその上に暮らすわれわれは大きなシャボン玉の内側にいることになる。
では、そのシャボン玉が壊れているとしたら。
すなわち天球が存在しないとしたら、それはわれわれの距離感がどんな遠方でも有効だからであり、三つ星の真ん中にある ε をオリオンの胴に刺さった槍の穂先とするような見方はありえても、三つの星をひとつづきのベルトと見ることはできない。
オリオンの左右の肩と両足にあたる星についても、それぞれと地球との距離は、Bellatrix が250光年、Betelgeuse が643光年、Rigel が860光年、κ が650光年。こんなに距離がばらばらなのだから、この遠方でもわれわれの距離感が有効であとすれば、これらの星の配置からオリオンの姿を見て取ることはできない。すなわちオリオン座は構成できない。

オリオン座について言えることは他のすべての星座についても言え、遠方でもわれわれの距離感が働くなら、魚やウサギや、神話の人物や、計量器や楽器やらの姿・形、これらのものを星々の配置から思い浮かべることはできない。すなわち、われわれは星座を作り出すことができない。

われわれの視力が強力で、天体のような遠方の物体についても遠近を見分けられるなら、その代償としてわれわれは星座を失う。
失った星座のかわりに得られるものは何か。
得られるのはノイズではないか。あるいは、混沌。
ひとつには、星座を失うことによって星々が意味を失くしてしまう。
星々にほんらいは意味はない。それらはただの無機物であり、地上から見るそれらはただの小さな光源にすぎない。けれども幾つかの星をあつめて、琴座、さそり座、ふたご座などの名をつければ、そこに意味が生まれ、無機的な星々がヒューマンなものに変わる。
星々に人間性などないことはいずれ判明するだろうが、物事の理解は対象をヒューマナイズすることからはじまる。星座を失うとは、理解の手がかりを失うということ。星々への関心が薄れるのとあわせて、星々が地上に送ってくる光も意味を失ってノイズと化す。
天空がノイズ化するもうひとつのわけは、情報の過多。
過多? 星座が失われるのではなかったのか。
われわれの距離感に限界がないとすると、すべての天体についてわれわれとの距離が見えてしまう。方向や光度にくわえ、観察者からの距離までが星々についてくる。距離情報がどこかの台帳に記録されているというのではない。観察者の目に入ってくるのである。まともに見つめたら、うるさくて耐え難いのではないか。
うるさいと感じたとき、人は情報を遮断する。今の場合でいえば、天球を復元する。
いや、そのように言ったのでは事の順序が逆になるが、それをただすのもうるさそうだから、とりあえずここまで。
結局のところ、天球の存在は不可避ではないか。