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2018-08-05
敗者は敗者のままに
そもそも敗者の救済は必要なことなのか。
目の前の敗者のことではなく、歴史上の敗者のことだが。

ナポレオンは勝者か敗者か。
ヒトラーは敗者か。
ムッソリーニは敗者か。
彼らが敗者だとして、かつ、われわれ生きている世代には歴史上の敗者を救済する役割が与えられており、敗者たちもそれを願っているというベンヤミンの論(歴史哲学テーゼ)を支持するなら、われわれは彼らの救出に向かわなければならないのだが…。
ムッソリーニがパルチザンに殺される。
ミラノの広場で、恋人のクララ・ペタッチの死骸とともに逆さ吊りにされる。
ペタッチのスカートが垂れ下がって、下着がむきだしになる。
そのとき一人の男が近づいて、ペタッチのスカートを直してやったという。
敗者の救済とはその程度のことでいい。ベンヤミンのいう「歴史の天使」の役割はそのへんまでで止めるべし。
ヒトラーやムッソリーニを蘇生させて彼らの夢をかなえさせてやるとか、ナポレオンをセントヘレナ島から脱出させて復位させ、ロシア遠征からやり直すとか、ワーテルローで勝利させるとか、どれもろくなことではない。

路傍みちばたにしょんぼり立っている木彫のキリスト像が僕にはありがたい
黒い十字架につながれた牝山羊めやぎが草を食べている
僕の信心が信じるともなくなつかしむ

アポリネールの詩「受難」(堀口大學訳)から。
道ばたで朽ちかけている像だから、かえって尊いのである。
山羊をつないでおくくらいの役にしか立っていない十字架だから、ありがたいのである。
信じるともなく懐かしむ程度の信心がほどよいのである。

敗者は敗者のままにしておく。
敗れたままをなつかしむ。
義経は衣川で死なず、大陸にわたってチンギスハンになった。
それで何かいいことがあったか。
日本の満蒙進出の正当化に使われただけではないか。