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2019-02-23
過去や夢は言語的なものであること
初読み大森荘蔵、「言語的制作ポイエーシスとしての過去と夢」。別の目的で積んでおいた『現代思想』vol.19-8所収。

想起は知覚の対極であって何等疑似知覚的なものを含んでいない。事実、想起は主として言語的なのであり、言語的な過去了解であることは誰でも自分の想起経験を想起してみれば直ちに納得されるだろう。
想起は言語的想起であるからこそ過去の意味は色や形や音や味としてではなく動詞の過去形の意味として了解されるのである。

これは考えつかないことらしい。著者自ら曰く、「これまでの常識に真向から逆らうもの」、「反常識的な提言」。

過去記述は言語による記述であって非映像的、非知覚的であり、高々その記述の挿絵として映像が働くに過ぎない。

過去記述を含む言語の意味が映像的なものでないことをみて取るには過去記述が適している。なぜなら、「過去形であること」の映像的表現は不可能であるからである。雨が降った、犬が吠えた、といった過去形の映像(過去性の映像)が考えられないのは and や or という接続詞を含む論理語とか虚数とか加法群といった数学的概念の映像が考えられないのと同様である。

夢については、

過去は知覚されずにただ想起される様に、夢もまた知覚されるのではなくてただ想起される。この想起において知覚の五感に代って働くのが言語である。過去なるもの、したがって夢もまた過去として言語的に想起される。だから過去とは過去物語であり、夢はまさしく夢物語なのである。夢はみるものではない。みるべき舞台もみるべき芝居もないのだから。夢はいわゆるレーゼドラマの様に舞台もなく役者もいない。ただ言語で語られる台本の様なものである。

大森はこれらのことを、時間を線形的なものと見るわれわれの時間認識を批判しつつ述べている。この前提や手続きの是非については保留するとして、タイトルが示すとおりの主張には同意できる。

次の引用はおまけ。想起の無根拠性という説には従えないが、「未だに異端」というきっぱりした口調がいい。

何かが想起されるには何の理由も何の根拠もないのである。この想起の無根拠性が最も明白に現れているのが夢という想起である。夢の場合はこの無根拠性は大よその所公認され受容されている。五臓六腑の疲れとかフロイトの夢解釈は未だに異端である。