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2018-03-17
永劫回帰の途中
永劫回帰(永遠回帰)ということの実感がない。
いまここで起きていることが、そっくりそのままいつか必ず繰り返される、しかも何度も、というのが永劫回帰。そんなことはありえないから、あるはずはないのだが、かりに時間を未来から過去にずらして、いまここで起きていることが遠い以前の出来事の繰り返しだとしたら? つまり永劫回帰は未来において起きるのではなく、すでに起きていて、いまが何度目かの回帰であるのだとしたら?

ニーチェ『ツァラトゥストラ』の一節、氷上英廣訳「幻影と謎」。

犬がこんなふうに吠えるのを、いつか自分は聞いたことがあったのではないか? わたしの思い出は過去にさかのぼった。そうだ! 子どものころ、遠い遠い昔に。
──いつか、犬がこんなふうに吠えるのを、わたしは聞いた。毛をさかだて、頭をそらせ、身をふるわせて吠えたてる犬のすがたを見た。深夜の静寂のきわみには、犬も幽霊を信じるというが、
──わたしは憐れをもよおした。ちょうど満月が屋上に、死のように黙々とのぼっていた。そのしずかに動かない円盤のかがやき、──それが平たい屋根の上にあった。照らされたわが家はよその家のようだった、──

現在の未来における回帰は実感をもって思い浮かべられないが、過去の現在における回帰には多少の実感をもてないでもない。後者だってありえないことなのだが、犬がこんなふうにか、あんなふうにか吠えるのを、いつか自分も聞いたことがあったのではないか──みたいな想念が浮かぶことはある。言い換えれば永劫回帰の過去半分の感触はないわけでもないから、すなわち自分は永劫回帰の途中にいるのだとして、同じことが未来においても起こると考えられるなら、永劫回帰の気分を味わうことはできる。