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2020-01-15
「卑怯未練」な救世主
源義経が衣川の館に囲まれたとき、弁慶ら10騎は奮戦して主君に殉じたが、常陸坊海尊ら11人は朝から近くの山寺を拝みに行って、それきりもどってこなかった。――
と『義経記』は伝えるが、この伝えを誰が伝えたか。
義経方は全滅したのに、何者が海尊らの不在あるいは逃亡を伝えたか。

論理的には、彼ら自身が伝えたと考えるしかない。

海尊 いや、面目もねえ身の果てじゃ。まんず聞いて下されえ。この常陸坊海尊は、臆病至極の卑怯者じゃった。衣川の合戦の折り、このわすは主君義経公をば見捨て、わが身の命が惜すいばっかりに、戦場をば逃げ出すてすもうたのです。いくさがおそろすうてかなわん。死ぬことがおそろすうてかなわん。それでわすは義経公を裏切り、命からがら逃げ失せたのじゃ。
おばば やあれ、恥ず知らずのことをばのう。そらアこの上もねえ卑怯未練というもんす。
海尊 わすは、逃げ失せはすたものの、ああ! 済まねえことをばすた、わりいことをばすたと、われとわが身を悔んでおるすが、どうにもならねえのは、われとわが罪深え心のありようじゃ。わすはそん時から七百五十年、おのれが罪に涙をば流すつづけ、かように罪をば懺悔すながら、町々村々をさまようておるす。
――秋元松代『常陸坊海尊』

中央に負け、関東に負け、西国に負け、と有史以来負けつづけに負けつづけてきた東北なら、これらの敗北を「卑怯未練」な個人の罪として個人が引き受ける心性があっても不思議ではない。秋元松代の戯曲『常陸坊海尊』は、そのような人物を東亜・太平洋戦争の行き詰まりを背景に造形し、第2、第3の海尊――じつは救世主でもある――を作り出すメカニズムを示してみせた。おぞましいメカニズムなのだが。