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2019-09-18
弁証法批判の到達点
弁証法批判の到達点。
唯物弁証法にとどまらず、弁証法一般をジャック・モノーは(否定的に)批判。
次の引用はモノー『偶然と必然』(渡辺格、村上光彦訳)から。

生物というシステムは全面的に極度に保守的かつ自己閉鎖的であり、また外界からのいかなる教えも絶対に受けつけないというシステムである(中略)。このシステムはその特性から言っても、その微視的な時計仕掛けのような働き――それは DNA とタンパク質のあいだにも、また生物と環境のあいだにも一方通行的な関係を打ち立てているが――から言っても、いっさいの《弁証法的》記述に抵抗し、それに挑戦しているといってよい。それは根底からデカルト的であって、ヘーゲル的ではない。細胞はまさしく機械なのである。

以下は自分の場合。

結論からいうと、
弁証法は思弁の術にすぎない。
これを法則として事物や社会に適用してはならない。


自分が納得するに至った経過を書いておくと、マルクス=エンゲルスの『共産党宣言』やエンゲルスの『空想から科学へ』の論理が根本的なところでおかしそうとは、以前から思っていた。
具体的にどうおかしいかは、エイゼンシュテインの弁証法論を見ていて気づいた。これは最近のこと。

事物の弁証法的体系が
頭脳のなかへ
抽象的な創造活動のなかへ
思惟の過程のなかへ
投影されて、生ずるのが
  弁証法的な思惟方法であり
  弁証法的唯物論であり
  哲学である
――セルゲイ・エイゼンシュテイン「映画形式の弁証法的考察」(佐々木能理男編訳『映画の弁証法』所収)

簡潔な表現なので、それだけ唯物弁証法の無理が露わ。
外部の事物が脳内に正確に「投影」されるなどとは、唯物弁証法以外の何者によっても保証されていない。さらに根本的には、事物の体系が弁証法的であるとは、ほかならぬ唯物弁証法による主張であり、上の論法ではその唯物弁証法を根拠として唯物弁証法が正当化されている。いわば、おれおれ証明。

このような唯物弁証法のエッセンスを、エイゼンシュテインはどこから得たか。これを出発点に源をたどると、エイゼンシュテイン→唯物弁証法の一般向け論説→エンゲルス→マルクス→ヘーゲル…→ホモ・サピエンス以前に至る。
思弁の術にとどめるべき弁証法を自然や社会にその原理として適用したのはヘーゲル。
マルクス=エンゲルスはヘーゲルを超えるべく唯物弁証法を唱えたが、唯物論を名乗った彼らの主張と異なり、弁証法を自然や社会に適用した点でヘーゲルの弁証法と同様の観念論。