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2019-06-20
真理とは一種の誤謬であること
ニーチェが言っている。

〈これこれのものはこうであると私は信じる〉という価値評価が〈心理〉の本質にほかならない。……それゆえ、なにものかが真であると思い込まれねばならないということは必要であるが、これはなにものかが真に存在するということではない。

木田元による解釈。

なにものかが真であると思いこむこと、つまりなにものかがあたかも永遠に変わることなく止まっているかのように思いこむことは、生が現状を確保し、そこにおのれを安定させるために必要なことであるが、それを本当に「真に存在する」などと思ったりしてはならない、ということであろう。

具体的な例をあげるなら、「日本人は江戸時代にいったん宗教の問題にけりをつけた、葬式仏教というかたちで」という意味のことを、オウム真理教事件の直後に書かれた『宗教なんかこわくない! 』の中で橋本治が言っている。
人を失くした者が味わう理不尽は、神や仏の存在を信じることで幾分か和らげられる。あの世や来世があるとすることで、逝った者が救われるように思え、そう思うことで残された者も救われる。
そこで葬儀が営まれる。
人に死なれた喪失感や理不尽や負い目を緩和するのが葬式という儀式。
ふだんは肉食や女色の禁を犯している外道な僧侶が、その儀式を何食わぬ顔で執り行う。
僧侶や宗教の建て前に背くあり方を江戸時代の人々は笑って許した。
彼らの外道は宗教界の内部だけで密かに許されていたのではなく、広く世間的にそのことが認識されていた。ときには建て前がまかり通って、宗教界の腐敗が咎められたりすることはあっても、日常的・世間的に許されていたことに意義がある。橋本治の言った「葬式仏教」とは、人間のあり方を高みから説く宗教ではなく、理不尽の緩和に従事する職能的な宗教のこと。
神も仏も存在していい。ただし、「生が現状を確保し、おのれを安定させる」ために必要とされる限りにおいてである。
惜しいことをしたのではないか。世界の諸文化にさきがけて日本では宗教からの解脱が果たされかけていたのに――

抽象にもどって、ニーチェいわく。

心理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような、一種の誤謬である。

引用は、ニーチェの言もふくめて、木田元『マッハとニーチェ――世紀転換期思想史』から。