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2019-01-17
ルネ・マグリット「暗殺者危うし」の時間的構造
ルネ・マグリットの L'Assassin menacé (The Menaced Assassin)、日本語訳は「暗殺者危うし」など 。
キャンバスと垂直の方向に時間軸があり、前景が未来、遠景が過去。


部屋のこちら側に、黒ずくめの男が二人。
一人は棍棒のようなものを軽く構え、もう一人は漁網のようなものを、これも力まない程度の構えでかかえている。
誰かが部屋から出てくるのを待って襲うつもりのようである。
彼らは誰を襲うのか。この絵の登場人物のうち、向こうの部屋からこちらへ出てきそうなのは、蓄音機のコーンに顔を向けている暗褐色のスーツの男だけ。この男は何者か、そして部屋の外の二人の男は?

この絵はマグリットが小説や映画の「ファントマ」に刺激されて1927年に描いた連作のうちの一枚で、構図はルイ・フイヤードのファントマ映画第3作「ファントマの逆襲」(原題 Le Mort qui tue)の一場面が下敷きとされている。


映画のこの場面は、実業家のトメリー氏がファントマのアジトにやってきたところ。
連れの女はファントマの愛人ベルタム卿夫人。
部屋の中ではファントマとその手下が待ち伏せている。
続く場面でトメリー氏がベルタム卿夫人といっしょに部屋に入ると、待ち伏せ側が襲いかかってトメリー氏をロープで絞め殺す。


映画「ファントマの逆襲」とマグリット「暗殺者危うし」のどちらにおいても、襲撃側は未来に対して意識的で、行動計画(やって来る人物を襲う)を持ち、そのための用具(棍棒や漁網のようなもの)を用意している。
未来が彼らの想定どおりに展開するかは保証されない。
けれども、計画を持ち準備も整えている点で、その他の人物に対して優位にある。
いわば彼らは、未来に先回りしている。
そして彼らの姿は壁にさえぎられていて、他の登場人物たちからは見えない。
「いまだ到来しない未来」は、「現在」の視野には入ってこない。同じ画面のうちにいながら、他の者からは不可視という点で、すでに彼らは未来そのものなのである。
映画においては、部屋の中の二人(ファントマと部下)が未来に先回りしていたが、ベルタム卿夫人はどうだったか。部屋に入ったあとの夫人の仕草や驚いたような表情から見て、彼女は部屋で起こる未来(トメリー死の殺害)を予期していない。知らずしてトメリー氏を未来に導く役割をさせられたのだろう。

映画では部屋の中が未来だったが、逆にマグリットの絵では部屋の中は過去。



ベッドの上で女が死んでいる。
口から血を流している。殺されたのだろう。
殺されたとして、絞め殺されたのか。
この設定が映画のトメリー氏殺害の場面に刺激されて発想されたものなら、彼女も絞め殺された可能性が高い。(追記: この人物の死因と身元
いずれにしろすでに事件は終わって、女は遺物としてそこにあり、時間軸の上では過去に位置づけられる。

女の死体に背を向けて、暗色のスーツを着た男が立っている。これがこの絵における現在である。
男は蓄音機の音に聴きいっている。いや、たんにホーンをのぞきこんでいるだけか。
女を殺したのはこの男にちがいない。
だとすれば、この男はファントマでなければならない。なぜなら、映画にしろその原作の小説にしろ、ファントマの物語は「すべての悪事の根本的な原因はファントマに帰せられるというルール」(赤塚敬子『ファントマ――悪党的想像力』)で貫かれているから。
この画中で、椅子にかけられたコートと帽子が未来に接している。床に置かれた鞄も同様。
女の死体のことなどは知らぬげに、すかした態度で蓄音機に聴きいっている、あるいは聴いているふりをしている男=ファントマは、まもなく床の鞄を取り上げ、コートを着込んで、帽子をかぶり、未来に向かって部屋を出てくることだろう。

ファントマが出てくるのを外で待つ黒ずくめの二人は何者か。
暴力をもってファントマを襲おうとしているのだから、これらは犯罪を取り締まる側、すなわち警察官と見たい。
実際、左側の男が持っている棍棒のようなものは、先端にいくほど太くなる古い型の警棒を思わせるし、右側の男が手にしている漁網のようなものも、犯罪者の制圧などに使う捕縛網ではないか。犯罪者ファントマに敵対する勢力として彼らが警官であるのは自然なことだし、それゆえタイトルも「暗殺者危うし」なのである。
ただし、現時点で未来に先回りしているからといって、この二人組がファントマを捕縛できるとはいえない。ファントマは不死身というファントマ物語の大原則に従えば、彼は襲撃を逃れて生き延びる。

検討されずに残っている人物があと三人。
窓の外、フェンスのむこうから首を並べてこちらを見ている男たちがそれ。
ベッドの上の死体を近過去とすれば、三人の男たちは遠過去
殺された女は血を流すことでかろうじて現在につながっているが、フェンスのむこうの男たちは目下進行中の現在ともその先にある未来ともつながることができない。すべては決着ずみで、言い訳もやり直しもきかない。未来に働きかけることもできないし、未来から振り返ってもらうことも期待できない。
彼らが取り残された者たちであることを、フェンスの存在が象徴している。