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2018-11-26
自分を自分から切り離しておく知恵
葛飾北斎とその娘お栄を中心に、周辺の画人、友人、家族らの日々を描いた杉浦日向子の短編連作『百日紅』の一場面。

「お栄さんまだひとりかい」
と北斎宅をおとずれた客がきく。問われた北斎は、
「あんなものひとりで沢山ヨ。うっかり増えたら気味が悪い」
と応じる。

客の言った「ひとりかい」は「独身か」という意味だが、北斎はこれを人数の意味にすり替えて、「お栄が二人、三人と増えたら気味が悪い」と話をそらす。
このすり替えは、話の焦点をお栄個人からお栄の属す場に移す。人から場へ。いわばテーマの脱人間化、非人間化。
なぜ北斎は事態を非人間化させようとしたか。いや、北斎にそうさせたのは作者の杉浦日向子なのだが。

風邪で臥せっていた母親をお栄が見舞う。
母親は北斎父娘と別居して、末の息子と暮らしている。
母親が治りきっていないのを見て、お栄が「こっちで住もうか」というと、母親は「それでは父ッつぁんが心配だ」と答える。それに対してお栄がいう。
「鉄蔵はひとりだって半分だって別状ねえよ」

これも『百日紅』の一場面だが、はじめの場面と逆に、ここではお栄が北斎を非人間化する。
鉄蔵とは北斎の本名。お栄はいつも本名で父親に言及する。父っつぁんとは呼ばない。北斎ともいわないし、もちろん師ともいわない。
本名で呼ぶことで親子・師弟の関係を薄め、疎遠な方向に自分たちの関係を置き直す。
「鉄蔵はひとりだって生きていける。半分だって生きていける」のである。娘として父親の面倒を見なければならない理由などはない。半分とは、半身を失っても再生するトカゲに北斎をたとえた。

なぜこの父娘はたがいを非人間化するか。
事態をドライにしておきたいから。
人間関係をべたつかせない。
この感性は作者がこの父娘に与えたのだから、作者の感性でもあるだろう。
さらにいえば、都会人の感性でもあるだろう。
狭いところに人がひしめき合っているのだから、互いの関係は希薄にしておく。それが都会人の知恵というものではないか。

同じ感性は、対人関係だけでなく、自分自身への関係にも働く。

遊び人の善次郎を二人の女が争って、一方が「自分は今そこらで拾われてきたわけではない。前の月見からの付き合いなのだ」というと、他方が「あいにくだね、こっちは七世前からの宿縁だよ」と主張して後者が勝つ。
勝者と二人だけになったところで、善次郎がいう。
「お久さんとそんな深い縁だったとは、ちっとも知らなかった」
善次郎はお久をからかっているのでも非難しているのでもない。むしろ、感心している。なるほど、そういうことだったのか、それもありだな、と。
他人に対するのと同様、自分に対する関係も濃厚ではない。それゆえ経歴やアイデンティティを書き換えることに抵抗が小さい。お久さんがそういうなら、そういうことにしておこうか。七世前からの宿縁ということに。

若いころの自分に起きた怪異な体験を北斎が語る。
それを聞いていた者が、あとになって、
「それにしても先生の一件、初耳でしたなァ」
というと、北斎は、
「バカいえ、俺だって初耳だ」
自分を自分から切り離しておく感性。他人との関係もだが、自分自身との関係も浅く保って、事態をべたつかせない。