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2017-02-07
月蝕
ドアのすきまからでも入ったか、気がつくと枕もとに月蝕がいて、何食わぬ顔で、
「こんばんわ」
それきり黙ってるから、
「こんばんわって、おまえなあ、ひとの家に忍びこんだら、まず名乗るのが先だろう」
と言ってやると、
「さあ、どうでしょう、あいさつが先ではないですか」
なんか面倒なやつが来たと思うが、まあ来てしまったものはしかたない。
「あのな、おまえはしらばくれるつもりかもしれないが、満月の晩に薄ぼんやり暗いのが枕もとに立ったら、そいつは月蝕と相場は昔から決まってる。もう正体は割れているのだ、恐れ入ったか」
すると、返事は、
「いいえ恐れ入りません」
どうやら我を張るやつらしい。
「恐れ入らんのかね」
「入りませんとも。なぜなら自分は、旦那は勘違いしてるようだが今夜の月蝕ではなくて、ほら三年前、あの田舎道で会ったあの月蝕なんです」
「なんだと、あの田舎道の月蝕だ? するとおまえは、あの田舎道のあの月蝕か。どうもどこかで見たようなやつだと思った。おまえが今夜の月蝕なら、初対面だからわかるはずはない。そうかそうか、あの田舎道の月蝕か」
「はい、あのときの月蝕で。どうもお久しぶり」
「そうか、あの田舎道の」
そうとわかれば、当然そのおりの不愉快な気持はよみがえる。
「よくもまああのときは、ひどい目にあわせたな」
「いえ、そんなつもりはなかったんです。ひどい目だなんて、あれも行きがかりで」
ごたごた言い訳めいたことを月蝕はつづけたが、そんなことでこちらの怒りはおさまらない。
それから月蝕と交わした会話というか罵り合いの内容は、三年前の傷にさわるんでいまは省略させてもらうが、腕力沙汰にこそならなかったものの渾身でわめきあったから、明け方には二人ともふらふら、ようやく月蝕のやつが黙りこんだから、こちらもうとうとしかけたのだが──
小一時間もねむったか。
目をさますと、入ってきたときは薄ぼんやりしてた月蝕が、こちんこちんに固まって大きさは大きめのアワビほど、滑らかに黒光りして捨てるのも惜しいから、その後は文鎮がわりに机の上に置いて、ときどきハタキでほこりを払っているが、たまにハンカチで磨いてやると、
「キュー」
と悲鳴みたいのが洩れることがあって、こいつもかなり煮詰まっていたらしい。