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2019-10-09
マルクスが歴史に人格を見ていたこと
いつごろからマルクスは歴史に人格を見るようになったのか。
ごく初期からだったのではないか。

ドイツにとって宗教批判はすでに果たされているとして、マルクスが言うには、

真理の彼岸が消えうせた以上、さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、何よりもまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。 ――カール・マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」(城塚登訳『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』所収)、傍点は訳文通り

この「序説」が書かれたのが1943年。マルクスは25歳。

「歴史の課題」と言っている。
この歴史とは、歴史学のことだろうか、それとも歴史そのもののことか。
上の引用箇所だけではわからない。
けれども、マルクスがつねにこだわったのは彼の同時代の歴史であり、姿勢としてはその同時代にどうかかわるかどう動かすかであって、どう記述するかという歴史学の立場とは異なる。彼の仕事全体からながめときは、ここにいう歴史も、歴史そのものとするほうが落ち着きがいい。
その歴史(そのもの)に課題があるという。
事物は課題を負ったりしない。歴史も課題を負ったりはしない。課題を負ったり、負わされたりするのは人間だけである。すなわちマルクスは歴史に人格を見ている。

上の箇所では「歴史に奉仕する」とも言っている。
つまり歴史は奉仕の対象。
歴史に人格を見ていなければ、こういう言い方は出てこないだろう。
マルクス主義の信奉者には、「歴史を信じる」という言い方もある。ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』のヒロインのケースを参照。そこで言われる歴史は、マルクスが上で使ったのと同様、歴史に人格を見た言い方だが、同時にマルクス主義の歴史理論=唯物史観をも指す。