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2018-06-20
落魄のダンディズム
門付け芸人の若い男が、以前を振り返って言う。

何の洒落しやれにか、頬被ほおかぶりをしたもんです。
門附かどづけになる前兆さ。ざまを見やがれ。

盲人のくせに妾が三人。いいのか、そんなことを許しておいて。
さらに重大なわけもあって、男は盲人をこらしめに行く。
そのさい頬被りをして出かけたのだが、思えばそれが門付けに身を落とす前兆であった。

泉鏡花の「歌行燈」。今回で三読目くらいか。
読みかけて眠り込み、夜中に目をさまして続きを読んだ。

「ざまを見やがれ」と男は門付けに身を落としたことを自嘲する。
この心情の吐露において、頬被りが落魄を象徴している。
そのいっぽうで、「なんの洒落にか」とも言って、それがダンディの装いであったことも洩らしている。
頬被りにおける落魄と洗練の同居。

参考: 頬被りのいろいろ(goo国語辞書から)


「与話情浮名横櫛」の切られ与三郎(鼻掛け)
「冥途の飛脚」の梅川(吹き流し)、同じく忠兵衛(道行)
「女殺油地獄」の河内屋与兵衛(ほおかぶり)
どれも粋である。
けれども、どれも恵まれた身の上の若者が生き方を誤って落ちぶれていく途次、あるいはその果ての装い。
落魄を扮装で飾る、さらに言うなら、落魄を称揚する精神がある。

話がそれたが、「歌行燈」のエンドロールはダンディの極み。