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2018-06-15
いわば平穏の悲劇
ジョルジョ・デ・キリコは、彼の「形而上絵画」(イタリア語で Pittura Metafisica、英語で Metaphysical Painting)を、1910年、フィレンツェで描きはじめる。

フィレンツェでは、さらに健康が悪化した。それでも、思い出したように小さなカンバスに絵を描くことはあった。私のベックリン時代は終わりを告げ、ニーチェの本のなかから発見した力強く神秘的な感情、イタリアの町々の美しい秋の日の午後の憂鬱を、種々の形で表現しようとする方向へ向かっていた。それはとりもなおさず、それからしばらく後にパリで、またさらに後になってミラノやフィレンツェやローマで描くことになる『イタリアの広場』の前奏曲でもあったのだ。(笹本孝、佐々木菫訳『キリコ回想録』)

「私のベックリン時代」とは、キリコが当時の人気画家アーノルド・ベックリンの影響下にあった時期をいう。この回想にあるように、ニーチェの著作に接したことでベックリンから離れ、ニーチェに入れ込むことになる。
「秋の、ある午後の謎」(L’enigma di un pomeriggio d’autunno)は、「イタリアの広場」を背景に描かれる最初期の一枚。


ある澄みきった秋の午後──と、キリコはこの絵を描くことになったきっかけを振り返っている。長い腸の病いから治ったばかりの体調で、彼はサンタ・クローチェ広場のベンチに坐っていたが、

私を取りまくすべての外界、建造物や噴水の大理石すらも私には病み上がりのようにうつった。その広場の中央には、長い上着を着て自分の作品を身体によせてしっかりと抱き、物思いにふける頭に月桂樹の冠をいただいたダンテの彫像がたっている。その像は白い大理石で出来ていながら、天候によって見た目に非常に快いグレーの銀色を呈していたのである。秋の暑い強い太陽によって、その像と教会の正面は輝いていた。その時私はこれらの物をはじめて眺めるといった不思議な印象をもち、その絵の構図が私の心の眼に明らかにうつった。(岩倉翔子訳「ある画家の瞑想」、中原佑介編著『25人の画家 第25巻 キリコ』所収)

目の前の光景を病み上がりの精神状態で受け止めたゆえに、かえって自分の描くべきものがくっきり脳裏に浮かんだのであろう。この光景を直接のきっかけとして、

都市の構造、家屋、広場、公共の散歩場、港、鉄道駅などといった建築の形態の中に、ある偉大な形而上美学の基礎原理がある。ギリシア人たちは、彼らの審美哲学の感覚に支配されたこれらの建築物の中に、ある種の不安感を抱いていた。たとえば柱廊、影のある散歩道、自然の大景観の前の平土間のように建築されたテラス(ホメロス、アイスキュロスのごとく)、いわば平穏の悲劇。イタリアにはこれらの建築物の現代の驚くべき見本がある。(岩倉翔子訳「形而上芸術について」、同上所収)

これら都市の構成要素である建築物を、古代ギリシャの人々が抱いていたにちがいない「いわば平穏の悲劇」の情緒でまとめて画中に配したものが、「秋の、ある午後の謎」の一枚ということになる。
キリコが眼前のイタリアの都市の景観のかなたに古代ギリシャを見ていたことは、同じ時期の作品である「神託の謎」(L'enigma dell'oracolo)について、「ギリシアの先史時代の流れをくむ詩情にみちあふれた絵」(『キリコ回想録』)と自身で語っていることからもうかがえる。