to top page
2018-02-22
影の教え
薄影が影にたずねた。
薄影とは影のまわりのぼんやりした影のこと。
その薄影が影に問うには、
「お前さんはさっきは歩いていたのに今は止まり、さっきは座っていたのに今は立っている。なんと節操のないことか」
すると、影がこたえて、
「おれは何かに頼ってこうしているらしい」
その何かとは人間の身体。人が歩けばその影も歩き、人が止まればその影も止まる。
つまり影は人に依存している。
続けて影はいう。
「おれが頼ってる何かも、また別の何かを頼ってそうしてるらしい。ということは、おれはヘビの皮やセミの抜けがらに頼ってるのか。どうしてそうなるのかも、そうならないのかも知らないが」

罔兩問景曰:「曩子行,今子止﹔曩子坐,今子起。何其无特操與?」
景曰:「吾有待而然者邪?吾所待又有待而然者邪?吾待蛇蚹蜩翼邪?惡識所以然!惡識所以不然!」
- 荘子/齊物論 - Wikisource

影が自分の意志で動いているわけではないように、人も自分の意志にしたがって動いているわけではない。
そのことを『荘子』は嘆かない。悲劇とも喜劇とも見なさない。人はそういうものなのである。
人は気ままに生きているわけではない。
何かに動かされているだけの受け身な存在、それが人間。
気まま、自ままな生き方なんて、そんなものはない。
そんなことは人にはできない。
人は自分の判断で動いているのではない。
人は影にすぎない。
で、何の影なのか、何に頼って生きているのか。
『荘子』の影がいうには、
「それがよくわからんのだよ。おれが頼ってる何かも、やっぱり何かの影ではあるまいか。あるいは、ヘビの皮かセミの抜けがらみたいなやつ」

途中の論理は考えるのが面倒だから省略して、結論。
人は自由な存在である。
どのように自由かといえば、じつは自由ではないのに、自由であると勘違いして、じっさいにも自由を感じたりする存在。
ひとことでいえば、仮想的自由。
さらにいえば、「自由」以前に、すでに「意識」が仮想的。
そういうわけだから、もっと気楽に生きたらいい。